日本は各国より割りと早い文化だったようです。
日本にはすでに弥生時代に絹の製法は伝わっており、律令制では納税のための絹織物の生産が盛んになっていたが、品質は中国絹にはるかに及ばず、また戦乱のために生産そのものが衰退した(室町時代前期には21ヶ国でしか生産されていなかったとする記録がある)。このため日本の上流階級は常に中国絹を珍重し、これが日中貿易の原動力となっていた。明代に日本との貿易が禁止されたため、倭寇などが中国沿岸を荒らしまわり、この頃東アジアに来航したポルトガル人は日中間で絹貿易を仲介して巨利を博した。鎖国後も中国絹が必要だったため、長崎には中国商船の来航が認められて、国内商人には糸割符が導入されていた。長年の衰退の影響で日本国内産の蚕は専ら綿の生産にしか用いる事が出来ない劣悪なものが多く、西陣や博多などの主要絹織物産地では中国絹が原材料として用いられていたが、鎖国が行われ始めた寛永年間から品質改良が進められた。また、幕府は蚕種確保のために代表的な産地であった旧結城藩領を天領化し、次いで同じく天領でより生産条件の良い陸奥国伊達郡に生産拠点を設けて蚕種の独占販売を試みた。これに対して仙台藩・尾張藩・加賀藩と言った大藩や上野国や信濃国の小藩などが幕府からの圧力にも関わらず、養蚕や絹織物産業に力を入れたために徐々に地方においても生糸や絹織物の産地が形成された。この結果、貞享年間(1685年)には初めて江戸幕府による輸入規制が行われた。更に同幕府の8代将軍徳川吉宗は貿易赤字是正のために天領・諸藩を問わずに生産を奨励し、江戸時代中期には日本絹は中国絹と遜色がなくなった。幕末の開港後は絹が日本の重要な輸出品となる。養蚕業、製糸業は明治以降の日本が近代化を進める上で、重要な基幹産業であり、殖産興業の立役者のひとつである。ほぼ前後して清(中国)でも製糸業の近代化が欧米資本及び現地の官民で進められた。元々国内需要・消費が多く、生産者が多かった日中両国での機械化による生産量の増大は絹の国際価格の暴落を招き、ヨーロッパの絹生産に大打撃を与えた。なお、日本と中国における最初の近代的な製糸工場と言われる富岡製糸場と寶昌糸廠(上海)の技術指導を行ったのは、同じフランス人技師であるポール・ブリュナー(Paul Brunat)であった。
第二次世界大戦で日本、中国、ベトナムなど東アジア諸国との貿易が途絶えたため、欧米では絹の価格が高騰した。このためナイロン、スフなど人造繊維の使用が盛んになった。戦後、日本の絹生産は衰退し、現在は主に中国から輸入に頼っている。1998年の統計では、日本は世界第5位の生産高ではあるが、中国・インド・ブラジルの上位3ヶ国で全世界の生産の9割を占め、4位ウズベキスタンや日本を大きく引き離している。
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